相撲では「下手(したて)は下手(へた)に通ず」などと言われ、上手からの芸を身に付けなくては駄目だとされる(上手と下手のせめぎ合いでは上手が有利)が、そんなセオリーに異を唱えるかのように、左四つからの下手投げを得意とし「黄金の左」と称えられた横綱輪島。
プロの世界では、下手からの芸を極端に嫌う。「下手投げを打ってはいけない」「下手投げを食ってはいけない」と言われている。ところが、輪島の得意、お家芸は左からの下手投げなのである。 (中略)「黄金の左腕」 これがそのころの輪島に冠されたほめ言葉である。こんなことがまかり通っては困るので、先輩横綱の北の富士(注:現・相撲解説者)に訊いたことがある。彼も輪島の下手投げを食った組で、「輪島の下手投げを食うのが不思議だと見る人が多いが、一つ見逃していることがあるのです。輪島が左から下手投げを打つとき、ものすごい力で右から攻めるのです。そのためにこちらのバランスが崩れ、あの下手投げを食うのです」
(小坂秀二『昭和の横綱』冬青社/「輪島大士」の項[229ページ])
大事な相撲でしばしば輪島に苦杯を舐めさせられた北の湖も「下手が強いんじゃないんですよ。右が強いんです。よく左を取ったら『黄金の左』だなんて言われましたけど、左はそんなに力、強くないんです。右が強いんです。右の絞りが強いですから、左が活きるんです」と語っている(NHK「名力士・名勝負100年」より)。北の富士と同じ感想。やはり対戦相手はよくわかっている。
つまり、右の絞り、おっつけからの下手投げという二段攻撃と言えるが、
「右からの攻めを見た者には感じさせず、もっぱら『黄金の左腕』だけにライトを当てさせた技能ぶりは、やはり彼が一種の天才であったことを示している」と前出の小坂秀二は記している(前掲書229ページ)。
この異能ぶりに加え、出世が早く髷(まげ)の結えなかった十両時代には、ザンバラ髪が鬱陶しいからとパーマをかける等、破天荒な振る舞いも話題になった。天下の関取がパーマをかけて土俵に上がるというのはというのは空前絶後だろう(小錦や曙のストレートパーマは髷を結うためだから、また別)。
引退後、年寄名跡を借金の担保としたという不祥事で、追われるように角界を去った時は、身から出た錆とはいえ可哀想に思ったものだった。何とか年寄として再起の道を与えてやって欲しかった。
が、あの枠にはまらない性格からすると、かえってそれが良かったのかも知れない。プロレスでは振るわなかったものの、その後の後半生は成功を収め、90年代に相撲誌のインタビューで「おかげさまで充実の毎日です」と語っていたのを読んだときは嬉しかった。