出羽ヶ嶽と双羽黒~二人の巨人

朝日新聞社のYouTubeチャンネルに、昭和初期の関脇、出羽ヶ嶽文治郎の映像がアップされた。とても鮮明な映像で残っている。

衰えて幕下に落ちていたころの相撲ではあるが、ちょいと腕を振るっただけで土俵中央、というより青龍柱(現在の青房)に近い位置から対面の白虎柱(同じく白房)側の土俵外まで吹っ飛ばす怪力。決まり手は突き落としか。

かと思うと、二番目の相撲では懐に潜り込まれ、足を取られて脆くもひっくり返る。強さと脆さが同居するのは巨漢力士に見られがちなことだ。

今から思うと意外でもあるが、この出羽ヶ嶽が相撲人気を一身に背負っていた時期があったという。いわば「出羽ヶ嶽時代」だ。

相撲界きっての人気者・だが本人は・・・

何しろ、幕内力士の平均体重が100kg台だった1920年代の相撲界に、身長203㎝、体重は175㎏とも言われるし、200㎏近かったとも言われる。観客の目を引かないはずがない。

だが、異様なまでの巨体からは想像しにくいが、実は子どものころから頭がよく、小動物を愛する物静かな少年で、将来の夢は小児科医。どこに行っても目立つ自分の体格を厭うようなところがあった。

背が低いことがコンプレックスになるというのは想像しやすいが、人並外れた長身もコンプレックスになるようだ。本人にとっては不本意なことながら、巨体を見込まれて強くスカウトを受け相撲界に入ることになる。

江戸時代には「看板大関」というものがあった。体が大きい男に「大関」の位を与えて土俵に上げるのだが、相撲が強いわけではないので土俵入りだけを務める。要は見世物だ。

並居る出羽ノ海の横綱大関と共に 体格だけなら横綱『昭和大相撲史』毎日新聞社 87ページ写真

出羽ヶ嶽もいわば看板大関的存在で、相撲人気が低迷していた昭和初期に幕に上がり、その巨体を見ようとする観客が詰めかける。相撲界にとっては救世主であった。しかし人気は沸騰したものの、もともと頭脳明晰な出羽ヶ嶽にとって見世物のような扱いを受けることは苦痛だった。

ただし、出羽ヶ嶽は決して弱くはなかった。戦後、大相撲中継の名解説者として知られた玉ノ海梅吉が出羽ヶ嶽との対戦を述懐している。いつの対戦かは述べられていないが、1935年春場所二日目の星取表に名前が見られる。

玉の海梅吉『これが大相撲だ――生きて、みつめて』(潮文社/表紙写真)

仕切り直しのために向かい合った私は驚いた。私の目のちょっと上にお乳が見えた・・・そのくらい大きい人だった。

私はまともにぶつかって右四つがっぷり、私はふんばる。出羽ヶ嶽も力いっぱい引きつける。今にも私は、腰骨がバラバラに砕かれてしまうのではないかと思うほどの力だった。額に汗が流れた。とっさに右にひねった。うまいぐあいに出羽ヶ嶽はひざをつき勝負はついたが、何しろ長身、片ひざついて倒れてなお私の体に覆いかぶさるように落ちてきた。すばやく身を引き、幸い下敷きにはならなかったが、部屋に帰った私に、平素はあまり相撲のことについてはしゃべらない師匠・玉錦が言った。

「相手を見て相撲を取れ!あいつとがっぷりになったら腰の骨を折られるぞ!」

『これが大相撲だ――生きて、みつめて』玉の海梅吉著/潮文社 92 ,93ページ

すでに全盛期は過ぎ、弱っていく一方だったころだ。それでも怪力で鳴らした玉ノ海が冷や汗を流し、そして腕力だけなら当時の第一人者・横綱玉錦も一目置くほど。

しかし、この場所は大きく負け越し、翌場所には十両に番付を下げる。さらに幕下から一時は三段目にまで落ち、二度と幕に戻ることはなかった。

歌人・斎藤茂吉は「番付もくだりくだりて弱くなりぬ 出羽ヶ嶽見に来て 黙しけり」と詠った。

引退後の人生も不遇だったと言われる。もし、あのような巨体でなければ、自分の望む道を歩めたのかもしれない。

『昭和大相撲史』毎日新聞社 88ページ写真

上の写真は、小鳥を愛でる出羽ヶ嶽。「趣味は多彩だった」と説明書きが付いている。

『昭和大相撲史』毎日新聞社 88ページ写真

こちらの写真はカメラを手にする出羽ヶ嶽。多趣味ぶりが垣間見える写真。

引退後 年寄田子ノ浦となった出羽ヶ嶽 『昭和大相撲史』毎日新聞社 88ページ写真

もう一人の巨人

多趣味な巨人力士と言えば、横綱・双羽黒――北尾光司を思い出す。

北尾も巨体ゆえに相撲界に入り、そして彼の場合は横綱にまで上り詰めたが、騒動の末、相撲界を追われるように去り、その後はやはり不遇と言っていいような人生を歩んだ。

新横綱・双羽黒(『大相撲』誌1986年秋場所展望号関東カラーグラビアより)

北尾も出羽ヶ嶽同様、多趣味だった。当時の力士には珍しくパソコンを操り、サバイバルナイフを収集した。ナイフを手入れしていて指を切ったという話が、現役当時の相撲雑誌に載っていた。立浪部屋の個室には大きなテレビと音響装置があったのを当時の相撲番組(「OH!相撲」)が紹介していたのも覚えている。

双羽黒(北尾)『大相撲』誌1986年初場所展望号表紙写真

力士引退後は、やはり巨体を活かしたプロレスラーになったが、本当に彼を活かす道は全く違うところにあったかも知れない。小坂秀二氏は、引退後もモノにならない北尾を「何事にも一所懸命になれないかわいそうな人なのだろう」と言ったが、そんなことはないと思う。実は相撲、プロレス向きではなく、いわゆる体育会系ですらなく、その趣味から窺えるようなインドア派の物静かな人だったのではないだろうか?

事実、何度も部屋を脱走しては強制的に連れ戻された。「俺の人生こんなはずじゃない」という北尾の悲鳴だったかもしれない。

北尾もまた、巨人ゆえに思うに任せない生き方をせざるを得なかった人のように見え、何か悲しさを覚える。

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