『相撲のひみつ』 新田一郎著(朝日出版社)
著者・新田一郎氏は歴史学者だが、相撲についての造詣が深く、競技者としての経験もあり、東大相撲部の部長も務める。
この本は入門書だが、歴史家らしく、安易に従来の相撲本が取っていた俗説に依らない記述をしており、ビギナーのみならず、長年のファンも読み応えがあると思う。
とは言ったが、疑問に思うところもないではない。それは、
土俵ができ「立合い」が生まれても、すぐに現代のような激しい立合いが当たり前になったわけではありません。現代では、土俵の中央部に七十センチ間隔で二本の仕切り線が描かれていますが、実はこの仕切り線が設定されたのは昭和3(1928)年のことで、それまでは、中央で頭をつけ合って呼吸をうかがうという仕切りがまま見られたものです。間隔をおいたところから加速をつけて思いきり当たり合うのが当然になったのは、案外最近のことなのです。
(70ページ)
という記述。
62ページに、仕切り線が引かれるようになる前の仕切りの写真が掲載されている。1927年一月場所と記されている。
確かに、両力士が近い間合いで足の位置を決めたのだろう。双方の頭がくっついている。
新田氏は、相撲雑誌の対談の中で「双葉山の後の先を取る立合いは、仕切り線の間隔があってこそ可能」とも言っておられたと記憶している(読売『大相撲』だったと思うが、その号が手元にないので、それが新田氏の発言だったかどうか、今は確認できない/双葉山の「後の先」の立合いについては、いずれこのブログで取り上げることができればと思う)。
頭をくっつけ合った状態から立てるのか?
だが、それを読んだとき「頭をくっつけた状態で、果たして立てるのか?」という疑問が湧いた。「これは、お互いに目測を誤った仕切りで、これでは立てないから、仕切り直しになったのではないだろうか」と。
もっとも、それは仕切り線の後ろから当たり合う今の立合いを見慣れているからそう思うのであって、当時はこの状態から立っていたのだろうか・・・?
日本最古の相撲の映像を見て確かめる
そこで、1900(明治33)年、に撮影されたという、最古の相撲の映像を見て確かめることにした。この映像はDVDマガジン「映像で見る国技大相撲」第19号のチャプター52,53に特典映像として収められている(メインは表題にあるとおり、若ノ花を中心に、栃若時代前期の映像)。
件の、頭をくっつけ合っている写真より27年前だ。これは、第十七代横綱・小錦(初代)の土俵入り映像が収録されていることでも知られる。
そのDVDから、画面写真を数番撮ったものを御紹介する。
まずは国見山-稲川。確かに蹲踞の位置は近いように見える。
仕切りも近いようだが・・・
だが、一回目の立合いは「待った」となった。これが二回目の立合い。一回目より少し離れている。
これは、最初の立合いが近すぎて立ちにくかったからなのか?
これは、利根川-野州山。
今度は、かなり離れた仕切り。
そこから当たり合う。今の相撲と変わりはない。
逆鉾-海山。
これは、結構近い。
駒ケ嶽と、のちの名横綱・太刀山。
駒ケ嶽、立合いに両手突き。これも今の相撲でも、よく見られるもの。
大㟢-小緑。これはやや遠い。
小緑、舞の海ばりの八艘飛び。このあと、舞の海はおろか、炎鵬や宇良も真っ青のアクロバット相撲を見せるのだが、それは今回のテーマとは関係ないので、また別の機会に(この映像には、ジャンプするような、両足が土俵から離れる相撲が多い。今の相撲との違いは、むしろそういうところ?)。
荒岩には、角聖・常陸山。
このほか、全部で十一番の相撲が収められている。この映像だけで結論を出すわけにもいくまいが、私の推測を裏付けるかのように、頭をくっつけたところから立ったものは一番もない。確かに仕切り線の制約がない分、近いように見える仕切りもあるが、多くは今の仕切り線の間隔、70cmよりは空いているように見える。かなり離れて仕切る相撲もある。
してみると、仕切り線が引かれるようになって初めて、距離を置いて当たり合う相撲を取るようになったのではなく、むしろ当時からの一般的な仕切りの間隔に合わせて仕切り線の幅がが設定されたとも考えられるのではないだろうか?
新田氏ほどの相撲研究家なら、この映像も知らないはずはないだろうから、これを見た上でも、昔の立合いは頭をつけ合ったところから始めたと考えておられるのか、もしかして、このことを指摘したら「ああ、そういえばそうですね」と言われるのか。
一度、新田先生に直接質問する機会でもあればと思