横綱・二代目若乃花。
この二代目、師である「土俵の鬼」初代若乃花、「お兄ちゃん」三代目若乃花(花田虎上)の間に挟まれて、ちょっと印象が薄い。
土俵でも、先輩横綱の北の湖、後輩千代の富士に挟まれ、とかく脇役的に見られがち。
▼本人不承知ではなかった「若乃花」襲名
大関までは「若三杉」のしこ名で取っていた。
この「若三杉」は、所属する二子山部屋付きの年寄・荒磯(元大豪)が一時期名乗った名でもある。
横綱昇進を機に、師の「若乃花」を継いで二代目になったわけだが、この改名については、
―― 師匠二子山が、本人にも知らせずに「若乃花」の改名届を協会に提出した。あとで知った本人は驚いた。本人は「若三杉」に愛着があり不本意な改名を強いられた――
という話が、有名なエピソードとして伝わている。
が、多年、大相撲放送に携わったNHKアナウンサー北出清五郎によると真相は違うらしい。
著書『大相撲との日々』(日刊スポーツ出版社)で次のような話が明かされている。
若三杉の横綱昇進伝達式が終わり、マスコミは引き上げたが、北出氏は残って二子山一家と部屋の居間でお茶を飲んでいた。
そこで、誰からともなく若乃花襲名の話題になった。
二子山は、いずれ継がせるつもりだが今は尚早だと、最初はむしろ消極的だったという。
それに対し二子山の次女と次男は、どのみち継がせるなら、早い方がいいという意見。
二子山から意見を求められた北出氏は自身の考えも述べた上で「まあしかし、受ける受けないは本人の気持ち次第じゃないですか」
それなら、と、横綱になったばかりの本人を呼んで、希望を訊いてみることになった。
二子山の次女が「姓名判断の先生の話だと(変えるなら)早い方がいいらしいのよ」と言ったことに、ゲンを担ぐ二子山が敏感に反応したことで、善は急げという運びになったもの。
「よし、それなら下山(若三杉の本名)に聞いてみよう。おい、若三杉を呼んでこい。それから北出さん、あんた立ち合って、あんたの口から言って見てくれないか」
いきなり大役を押しつけられてしまった。
親方の寝室の六畳間に若三杉が呼ばれ、親方と向かい合って対座し、私が二人の間にちょうど行司のような位置にすわった。私はすぐに切り出した。
「横綱、親方があなたに若乃花のしこ名を譲る気持ちがあるそうですがいかがですか。ただし、いま受ける、受けないは一切あなたの自由です。親方はあなたの気持ち次第といってますから遠慮しないで答えて下さい」
私としては慎重に言葉を選んだつもりである。若三杉は不意のことなのでじっと考え込んでいる。何か言いたそうに口を開きかけて、まただまって考える。ずい分長い時間がたったように思われた。
私が見ていると、若三杉の眼のふちにボーッと赤味がさし、やがて口を開いて、
「もらって励みにしたいと思います」
低いが、ハッキリとした声だった。あぐらをかき、腕を組んでいた二子山親方はその答えを聞くと「よし、わかった」とひと言、大きくうなづいた。 (122~123ページ)
問題はそのあとで、実は伝達式の取材に集まっていた報道陣から若乃花襲名についての質問があったのだが、それには「改名しない」と明言していた。
「マスコミの皆さんに悪いことしちゃったな。もう一度集まってもらって改名の発表をするのも大げさだから、番付発表でわかるようにしよう」(123ページ)
ということで、協会に届けだけは出し、名古屋場所の番付発表まで公表せず伏せておくことにした。結局これがまずかった。
番付発表の前に、嗅ぎ付けたスポーツ紙がスクープし、それについてマスコミから問われた若三杉=若乃花は、番付発表までは伏せるとの取り決め通り「おれ知らないよ」と答えた。そこで「本人も知らないうちに届けが出された」という話が広まった――以上が北出氏の明かすところである。
一人、二子山の長女だけは、本人の重荷になるのではと心配したという。
▼優柔不断
とはいえ、親方から改まって襲名の話を切り出され、しかも即答しなけらばならなくなった若乃花は、拒み難い雰囲気を感じたのではないだろうか。
押し付けられた、という思いではなかったにせよ、断っては親方に悪いという気持ちが働いたということはあり得る。実際、上に引用した北出氏の述懐でも、若乃花はすぐに返事ができないでいる。心が揺れていたことは確かだ。
「若三杉のしこ名が好きで、変えずにそのままでいたかった」と、のちに語ったとも言われる。これも真偽は不明だが・・・。
周囲が急がなければ、しばらく若三杉のままで取り続けていたわけだし、そうすれば若三杉のまま定着していた可能性もある。しこ名にはこだわる力士と、そうでもない力士がいるが、若乃花は前者だったようで、愛着のあるしこ名を捨て、しかも重いしこ名を背負わされたことが、相撲にまで影響したかも知れないとは考え過ぎだろうか?
よく言えば人がいいのだが、この若乃花の優柔不断さは彼の結婚にも表れている。交際していた女性がいたにもかかわらず、先述した二子山の長女との結婚話(それは二子山部屋を継ぐことも意味していた)を受けてしまったことだ。
思い立ったら即行動、の二子山に引きずられた面が大きいのは間違いない。不本意な結婚はうまくいかず、わずか1年余で離婚した。当然、このことは妻の父である師匠との関係にも影を落とす。
そうした心労の影響もあり、29歳の若さで引退。
「協会内部、ことに幹部連中は二子山とその娘さんに対する同情の念が強く、若乃花のサイドに立つ者はいなかった。このあたりいかにも処世術に欠ける若乃花らしいのだが、このため誰一人慰留する者もないままに早い引退となった」(小坂秀二『昭和の横綱』冬青社 240ページ)
当時の週刊誌に《ああ、土俵の外で疲れ切った》という皮肉な見出しがあったのを覚えている。
▼「弱い横綱」ではない
肝心の土俵の中での若乃花だが。
上述したように、北の湖~千代の富士時代の流れの中で、脇役横綱的に見られ、優勝回数も4回とパッとしない。現役当時の相撲関係の書籍にも「B級横綱」などという酷評もあった。
しかし、注意して場所ごとの成績を見ると、決して「弱い横綱」ではない。優勝に次ぐ「準優勝」の場所が13場所ある。そのうち二場所は優勝同点。
【参照】若乃花 幹士 力士情報sumodb.sumogames.de
大相撲には準優勝を表彰する制度はないが、解説者の神風正一が「準優勝に何もないのはおかしいですな。場所を盛り上げたんですから」と語っていたことがある。もし制度があれば「準優勝13回」の記録が残るところで、評価も違ってくるかも知れない。(Wikipediaには「優勝次点は輪島と並ぶ14回で史上1位」とあるが、これは他に「優勝同点」の力士がいたということ)
準優勝に手が届かなかった場所でも、終盤まで北の湖らと優勝を争うことも多い。特に78~80年の3年間は、ほとんど毎場所、優勝争いに加わり、素晴らしい勝率。
ただ「準優勝」が多いということは、「ここ一番」という時の勝負には勝てないことが多かったということも示している。それは大力士になれるかどうかの分かれ目と言っていい。同年齢ということもあり、自身の全盛期が北の湖のそれと重なったのも不運といえば不運だった。
《スランプ》
80年秋に4回目の優勝を遂げ、次の九州でも千秋楽まで輪島と優勝を争い、最終的に優勝は逃したが、ここでも力は示し、翌年以降も北の湖に次ぐナンバー2として優勝に絡んでいくと思われた。
ところが翌81年、誰も予測しなかった千代の富士の急成長と反比例するように、若乃花は急激に不振に陥っていく。
初場所は13日目終えた時点で8勝5敗。十四日目の土俵入りの時、アナウンサーが「若乃花が5敗してるんですよねえ・・・」と意外そうに言っていた。
翌、春場所、NHK相撲中継の初日恒例だった解説陣の優勝予想では、北の湖に次いで二番手としてはやはり若乃花の名を挙げる人が多かった(新大関の千代の富士は三番手と見る予想が多く、中には名を挙げない人もいた)。 フタを開ければ若乃花は六日目までにまさかの3敗。魁輝に負けて下がっていく若乃花の姿を実況アナウンサーは「寂しそうに見える」と評した。頸椎捻挫との診断で、七日目から休場。これが尾を引き、三場所連続休場となった。
復帰して再起をかけた秋には11勝と、まずまずの成績で持ち直したものの、翌、九州場所前には、直腸膿瘍に見舞われるという不運で全休。場所後には、前述の通り、離婚騒動も加わり、散々な1年だった。プライベートのストレスも病気の原因かも知れない。
《復調するも・・・》
明けて82年の初場所は、病み上がりに離婚騒動の疲れも加わり、9勝6敗がやっと。しかし、春には11勝。十四日目まで3敗で、千秋楽結びの千代の富士‐北の湖戦の結果いかんでは決定戦もあり得るという所まで行った。そして、夏場所は十四日目まで2敗。千秋楽結びの千代の富士との相星決戦に勝てば朝潮との優勝決定戦。結果、千代の富士に敗退して、惜しい所で優勝は逃したが、取組前には若乃花の方が有利という見方もあったほどの回復ぶり。
玉の海梅吉「北の湖以上に残されたものは持っていると思う」
小坂秀二「あの人の持っている限界に到達するまでには、まだまだ残っている面が、うんとあると思いますよ。まだ六分か七分しか出ていない。まだあの人はこれだけの相撲を取れるという余地が残っている。これは非常に楽しみ」(読売『大相撲』1982年夏場所総決算号「総評座談会」72ページ)
「北の湖は足の不調があり、千代の富士は軽量ということもあるし、案外生き残るのは若乃花では」そう言う人さえいた。
だが、これがピークだった。翌場所、翌々場所は今ひとつの成績に終わり、九州は病気の再発で休場。明けて初場所、五日目までに3敗を喫すると、あっさりと引退。29才の若さだったことは先述の通り。
体は柔らか味があり、のちの旭富士にも似ていた。均整の取れた体型は大鵬二世とさえ言われ、素質的には十分すぎるほど恵まれていたが、それを活かし切れなかったのは、先に述べた優柔不断さにも表れた心の問題が大きかったのは確かだと思う。 二代目は土俵の上でも「第二の男」だったことは、残念ながら否めない。
引退後は独立して間垣部屋を興す。先述の結婚前から交際していた女性と再婚し「部屋創設の挨拶状が夫人と連名で、当時話題となった」(小坂秀二『昭和の横綱』240ページ)現在、横綱になっている照ノ富士の最初の師匠でもある。
最近では、かの「貴闘力チャンネル」に登場。脳梗塞の後遺症が感じられる姿は、現役時の美しすぎるほどの容貌を知る身にはちょっとショックだが、発語にやや不自由はあるものの、話しぶりはしっかりしていた。