1983年4月の巡業中、横綱千代の富士は左肩を脱臼した。稽古で平幕の斉須におっつけられた際に外れたもの。
千代の富士が、幕下時代に初めて肩を脱臼して以来、反復性となり、8度にも渡って肩関節脱臼を繰り返したことはよく知られている。
(なお「公式記録」として8回ということで、ひどい時には寝返りを打っただけで外れ、そのつど自分で整復していたというから、実際は10回を超えていたという)
その脱臼を、肩周辺の筋肉をつけることで関節を固め、さらに引っ張り込んで投げを打つ、肩に負担をかける取り口を改めて、前みつを引きつけて速攻で寄って出る取り口に変えたことで克服し、大きく飛躍した。
81年は初優勝、大関昇進、その後わずか3場所で横綱昇進、この年3回の優勝。翌82年は4回優勝で、それまで第一人者だった北の湖に取って代わったことを強く印象付け、さらに83年もその勢いは止まらず、春には8回目優勝を悲願だった初の全勝で成し遂げる。
年齢的にも力士としてピークと言われていた28歳を迎える年でもあり、優勝回数を二桁の大台に乗せるのは確実、千代の富士最強の年になると誰もが見ていた。
付け加えると、81~82年に8連敗を喫し、すっかり苦手にしていた「ウルフキラー」隆の里にも、82年九州で雪辱を果たして以来、今度は千代の富士が隆の里を問題にしない一方的な相撲で3連勝。もはや苦手ではない。
好事魔多し
そんな矢先、完全に克服したと思っていた脱臼に、実に79年春以来4年ぶりに見舞われたのだ。
大関昇進以前の8回の脱臼、また優勝を決めた土俵上のことで有名な89年春の大乃国戦での脱臼と比べ、今ではあまり語られることのない9回目の脱臼だが、この時の脱臼は千代の富士にとって、相当なショックだったのではないかと想像する。
脱臼したのは4月初旬。その後、順調な回復が伝えられ、夏場所には十分間に合うだろうというのが大方の見方だった。
ところが場所が近づいてきても、本人は出場を明言しない。
あれほど筋肉をつけても脱臼は完全には防げなかった。それもかつてのような強引な技をかけたのが原因なら取り口を改めればいいが、相手の攻めで外れたのだから、本場所の土俵でも同じことが起きるかも知れない。そうなれば力士生命をも縮めかねない――。
苦悩の末、達した結論は肩の筋肉をもっとつけ、さらに脱臼しにくくした状態でなければ土俵に上がれないということ。それには夏は間に合わない。
夏場所は全休。これが千代の富士が降した決断だった。
留守中にのし上がった隆の里
この夏場所はもう一方の横綱北の湖も休場。両横綱不在の中、大関取りを賭けていた関脇北天佑が14勝1敗で初優勝する。
その北天佑と最後まで優勝を争い、13勝2敗と優勝次点の成績を上げたのが大関隆の里。
前々から横綱の力はあると言われていた隆の里が、いっそう成長を見せ、翌名古屋場所では横綱昇進をかけることになる。
ウルフスペシャル5連発
その名古屋場所初日、千代の富士は巨砲を、首を押さえつけての上手投げで降す。
二日目は稽古で脱臼した因縁の相手、斉須だったが、これも首を押さえての上手投げで問題にせず。
続けて、嗣子鵬、出羽の花、佐田の海と、五日目まで同様に相手の首根っこを押さえる、後に「ウルフスペシャル」と呼ばれるようになる上手投げで連続撃破。
因みに、この「ウルフスペシャル」(この頃は、まだそんな呼び名はなかった)。私の記憶する限り、最初に使ったのは大関時代の1981年名古屋七日目の栃赤城戦。
栃赤城に対しては、その年九州、翌初場所も、やはり首を押さえ付けながらの上手投げで決めており、栃赤城は3回連続で、この「ウルフスペシャル」を食らっている。
話を83年に戻すが、名古屋場所後の『VANVAN相撲界』のマンガに、5日連続で左上手投げを決めた千代の富士を、勝ち残りで見ていた朝潮が「強いなー。ホンマに左肩脱臼したのかな?」と言ったあと千代の富士の左肩を見たら長くなっていたので「ああ、どうりで」と納得するというのがあった。
それはもちろんジョークだが、左からの投げといっても、右を補助的に使っていたわけで、豪快で、強引にさえ見えても、左肩の負担を軽減する投げ方だった。以後、この投げ方を多用するようになっていく。
9回目の脱臼は「ウルフスペシャル」誕生の契機になったとも言える。
休場のブランクなのか・・・
舛田山に不覚
圧倒的な強さを見せていた千代の富士だったが、九日目に思わぬ落とし穴。
相手は舛田山。失礼な言い方だが、当時の幕内にあって、そう目立つ存在ではなく、突っ張って叩き、引きという取り口のまともに来る力士で、横綱にしてみれば、まず落とす心配のない「お客さん」と言える相手。
その舛田山、得意の突っ張ってからの引きで、千代の富士を土俵に這わせてしまう。
千代の富士が引かれて前に落ちるのも珍しい。取組後「あれしかないのがわかってるのを食っちゃった」と苦笑いだったという。
十五日間取っていれば、一日くらいポカをやる日もあると言えばそれまでだが、よほどのことがない限り危なくはない相手に落としてしまうあたりが休場明けの微妙なカンの狂いだったような気もする。
隆の里に主役を奪われる
その後、千代の富士は十四日目まで負けない。綱取りの隆の里も好調で、両者が千秋楽に1敗同士で優勝をかけて対戦。
力相撲の末、千代の富士は隆の里に敗れ、優勝をさらわれた。
苦手は克服していたはずだった。しかし、これも休場していた千代の富士と、その間にまた一段と強くなった隆の里との僅かな差が勝負に表れたような気がしてならなかった。
隆の里は「鬼の居ぬ間」に天下を盗った――まあ、ウルフファンとしてはそんな思いもあった。
そして千代の富士は翌場所も、隆の里との優勝をかけた千秋楽決戦。この時は両者十四日間土つかずでの対戦だったが、またも隆の里に敗退し優勝を逃している。
A級横綱になるチャンスを逃し・・・
翌九州場所こそ、やはり隆の里との1敗同士の千秋楽対決を制し、四場所ぶり9回目の優勝を飾ったものの、この年には優勝通算10回を超えるのが確実視されており、千代の富士最強の年になったはずだったことを思えば、やや不満の残る年になった。
そして84年に入ると千代の富士は優勝から遠ざかる。それが一時のスランプに過ぎなかったとわかるのは後になってからのこと。年齢的にもピークを越えたとの見方をされたのも当然。
ファンとしては、返す返すも「あの脱臼があったばかりに・・・」と思わずにはいられなかった。
第二黄金期は あの脱臼があったからこそ?
だが一面、こうも思う。もし千代の富士が脱臼せず、83年に絶頂を迎えていたとしたら、以後は本当の下り坂になり、85年以降の「第二期千代の富士時代」を築くことはなかったかも知れない。
脱臼後、さらなる筋肉アップに励んだことも、のちの活躍と無関係ではあるまい。
いろいろな事を思うにつけ、あの9回目の脱臼は、千代の富士にとって重要な分岐点だった、そんな気がする。
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