子どもの頃に買った本『燃えよ!千代の富士』(講談社)。
千代の富士の初優勝、大関昇進時に刊行されたもの。
当時は(今でも?)こういう厚めの子ども向け文庫サイズ「百科」本というのがよくあった。
横綱 嶽の浦?
その中に気になる記述が。
千代の富士が100の質問に答えるというコーナーの99問目。
千代の富士の先祖に 嶽の浦 という横綱がいたのだという。
(余談だが、千代の富士が「そおなんです、川崎さん」と言っているのは、質問している記者の名前が川崎だったのではなく、当時のワイドショーから出た流行語「そうなんですよ川崎さん」で、漫才コンビ「ザ・ぼんち」がネタにしていたものだろう。千代の富士がよく「ザ・ぼんち」の物真似をしていたというのは、妻の久美子さんも相撲誌のインタビューで話していた)。
いや、しかし歴代横綱の中に「嶽の浦」なんて力士はいないはずだが・・・?
(参照)↓
しかし、この本には写真まで載っていて「ひいおばあさんの弟」と説明がついている。
↑『真っ向勝負―嘉風自伝』嘉風雅継(年寄・中村)著/ベースボール・マガジン社
ヤフー知恵袋に質問
子どもながら疑問に思っていたが、この本が出てきたのを機に「ヤフー知恵袋」に質問してみることにした。四十年来の謎が解けるか。
一つ目の回答
すると早速「江戸末期~明治にかけての津軽藩の力士で、強すぎたため妬みを買って毒殺された」という回答をいただいた。実は、その話も、この本の中に掲載されている「北海のウルフ 千代の富士貢物語」という漫画の中に紹介されている。
ちょっとフィクションのにおいがする話だが、それはともかく、これがその「嶽の浦」だとするには、少し問題がある。
嶽の浦は「ひいおばあさんの弟」とのことだから、千代の富士の父の秋元松夫さん(1999年没/74歳)の年齢から逆算すると、やや古く見積もっても、曾祖母は明治初期の生まれと考えられ、その弟なら、江戸末期から明治にかけての力士というのは、ちょっと時代が古い。しかし同一人である可能性が全くないとも言えない。
二つ目の回答
さらに続けて別の方からいただいた回答には、1994年にNHKテレビで放送された「スポーツ100万倍」という番組の千代の富士が取り上げられた回で、嶽の浦のことが紹介されたことがあるという。しかも、やはり毒殺されたという津軽藩の力士がそれだと。↓
しかしNHKで紹介されたとはいえ、歴代横綱に嶽の浦という名がないという事実は動かない(もっとも上記リンク先のNHKホームページでは、嶽の浦のことを「横綱」とは言っていないのだが)。
この方は「大坂相撲や京都相撲の非公認横綱の可能性もあるかと思いましたが、該当する力士はいませんでした」とも付け加えている。
↑信濃毎日新聞社(編)長野県上松町出身の御嶽海関が大関に!三度目の優勝を飾った初場所含めた直近3場所の取組詳細 初土俵からの全戦績と番付一覧ほか 歓喜に湧く地元などを収録する昇進記念の報道写真集
謎は残る・・・
そもそも、いくら検索しても「嶽の浦」という力士の情報自体が見つからない(明治末期に「嶽ノ浦」という一字違いの力士はいたようだが、序ノ口でひと場所取っただけで引退しており、しかも東京都出身とのことなので、関係はなさそうだ)。
別の力士のエピソードが紛れ込んだ?
いろいろキーワードで検索を続けたところ、江戸時代の大関「白川志賀右衛門」にも毒殺されたという伝承があり(しかも殺害された場所は「津軽藩」だという。白川自身は秋田藩の出身らしいが)これが「嶽の浦」のエピソードとして伝えられるようになったということも・・・?。
(参照)↓
疑念は尽きないが
疑い出せば、そもそも「嶽の浦」という力士は実在したのか、この力士の写真は本当に「嶽の浦」のものなのか、なぜ「横綱」だったとされているのか。実在したとして、本当に千代の富士の先祖なのか―――疑念は尽きないが、千代の富士の生家・秋元家に、こういう伝承があるということだけは確かなようだ。
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