アンチヒーロー隆の里
少年の頃の僕のヒーローは何と言っても千代の富士。
その千代の富士が最も苦手とし「ウルフキラー」と呼ばれた隆の里を好きになろうはずがない。
前の記事で取り上げた双羽黒(北尾)が、全盛期に向かう時期の千代の富士のライバルなら、隆の里は81~83年の、いわば「前期千代の富士時代」の最大の難敵だった。
当時の憎まれ者といえば北の湖で、ふてぶてしそうに見える顔付きや肩を怒らせて歩く姿勢などが傲然として見え、憎らしいと思う人が多かったものだが、僕にしてみれば隆の里に比べれば可愛いものだった。ふてぶてしい風貌(まあ、嫌いだから余計そんな風に見えたのだが)や、肩を怒らせる歩き方は北の湖に負けていない。
「顔を見るのも嫌でした」
千代の富士は、大関、横綱昇進では隆の里に先行したものの、綱取り挑戦の1981年名古屋、唯一の黒星をつけられたのを皮切りに8連敗。しかも2敗目の81年秋は新横綱の場所だったが、隆の里の上手投げで倒れた際、場所前から痛めていた左足をさらに悪化させ、休場に追い込まれている。
当時の相撲誌には「別に苦手意識はない」という千代の富士の談話が載っていたが、引退してから明かしたところでは「顔を見るのも嫌でしたねえ」(『私はかく闘った――横綱千代の富士』(千代の富士貢・向坂松彦共著/日本放送出版協会115ページ)。
もちろん現役時代にそんなことを言ったら、相手にもっと自信を持たれてしまうから、口が裂けても言えなかっただろうが、いっときは二所一門の連合稽古に参加しても隆の里を指名することは避けていたようだ。
琴風ばかり相手にするので「今さら突進相撲対策で琴風でもない。なぜ隆の里とやらないのか」との師匠九重(北の富士)の談話が、これも当時の相撲誌に載っていたのを覚えている。手の内を見せたくないというところだったのだろう。
「何をやってもうまくいかないんですよ。私がまったく違った作戦でいくと、また相手がその裏をかいてくるんです。なんでこんなことまで考えてくるのかなみたいな」(『私はかく闘った』115ページ)。
策士・隆の里
隆の里は、千代の富士初優勝の時、これから千代の富士の時代になると思い、千代の富士攻略を考えたという。
「毎日、頭の中で『ああ来ればこうなる、ああなる』と考えていましたね。最新式のビデオを勝ったんですよ。二場所もしたら故障しましたね。止めたり戻したり止めたり戻したりして。友達が遊びに来て、私が立合いを何回も(再生して)見てるもんだから、怒って帰っちゃったこともありますよ」(前出DVDインタビューより)
「四六時中、千代の富士といっしょにいるつもりでいた。そして彼が何を考えているかをずっと考えていた」(『私はかく闘った』116ページ)
何で読んだか忘れたが、巡業などでも千代の富士の近くに明荷を広げ、何を食べているか、どんな本を読んでいるかまで研究したそうだ。
千代の富士「ウーン・・・これでは当然研究負けだね。こちらはそこまで考えていなかたもの」(『私はかく闘った』116ページ)
1982年夏の対戦では、千代の富士の下手、上手の相次ぐ投げの強襲を残して勝ち「相四つだから投げは食わない」とまで言っている(読売『大相撲』1982夏総決算号90ページ)。絶対の自信を持っていたのである。取組前、土俵下の控えに座っていると、千代の富士の顔が青ざめているのがわかったという(前出DVDより)。
相撲解説者・玉の海梅吉は「隆の里戦には千代の富士の限界を見る思いがする」と語った。僕にも、千代の富士はどこから行っても、隆の里にだけは勝てそうにないように見えた。
ついに連敗ストップ!だが・・・
1982九州、千代の富士があれこれ作戦を立てるのをあきらめて、立合いに強く当たることだけを考えて行ったら、不思議なほどあっさり勝てたという。
それから翌年初、春場所と、今度は千代の富士の3連勝。考えに考え抜いた相手に、何も考えずに行ったら勝てた、というのが面白い。
隆の里のような怪力豪腕タイプの力士は意外とスピードに弱いところがある。
これで苦手は克服した・・・と僕も喜んでいたのだが、そうもいかなかった。
1983年名古屋から翌年初場所まで、四場所連続で千秋楽結びで優勝をかけて相星で対戦。相撲史上、例を見ないことらしいが、この対決は千代の富士の1勝3敗に終わっている。
千代の富士は隆の里のために、優勝回数10回の大台を前に足踏みすることになる。
短かった「千・隆時代」
だが、この四場所対決以後、隆の里は急速に衰えていき、それとともに千代の富士もスランプの時期に入る。
千代の富士は復活したが、隆の里は休場も多くなり、横綱審議委員会は「往生際が悪い」などという辛辣な言葉も投げかけた(昔も今も横審というのはそういうことを言う)。
86年初場所を最後に引退。
この頃には、もう隆の里を憎いと思う気持ちはなくなっていた。