新田一郎著『相撲のひみつ』(朝日出版社)に、次のような記述がある。
土俵ができ「立合い」が生まれても、すぐに現代のような激しい立合いが当たり前になったわけではありません。現代では、土俵の中央部に七十センチ間隔で二本の仕切り線が描かれていますが、実はこの仕切り線が設定されたのは昭和3(1928)年のことで、それまでは、中央で頭をつけ合って呼吸をうかがうという仕切りがまま見られたものです。間隔をおいたところから加速をつけて思いきり当たり合うのが当然になったのは、案外最近のことなのです。
(70ページ)
これは、その後書かれた『相撲 その歴史と技法』(日本武道館)にも述べられている新田氏の持論である(250ページ以下)。
この「立ち合いに勢いをつけて当り合うのは仕切り線制定以後のこと」という説への疑問を、以前、次の記事に書いた。 ↓ ↓ ↓
私の推測は「頭を付け合うほど近い仕切りは、お互い目測を誤ったもので、その状態では立てない、もしくは立ちにくいから仕切り直しとなり、実際に立つときには仕切り線がなくても、今の立合いと同じようにある程度の間隔から当り合っていたのではないか」というものだった(ただし新田氏も、間隔を空けて立ち合うこともあったことは否定していない)。
最近、池田雅雄『大相撲ものしり帖』(ベースボール・マガジン社)を二十数年ぶりに読んで、やはりこの推測で正しいのではないかと、ますます思うようになってきた。。
《仕切り線の設置は仕切りを長引かせないため》
池田氏の述べるところはこう(57ページ)。
昭和三年(一九二八)一月から、ラジオの実況放送が始まり、放送時間中に取り組みを終わらせる必要のため,、江戸時代から長くつづいた無制限の仕切りも、ついに幕内十分(今は四分)十両七分(三分)幕下以下五分(二分)の仕切り制限時間が制定された。同時に、立ち合いを円滑にする必要から、土俵中央に仕切り線を制定した、これまでの仕切りは制限時間がないため、仕切り直しのたびに両力士はジリジリ前に出てきて、ついには、頭と頭をぴったりくっつけて睨み合うという仕切りがよく見られた。こうなると、相手の呼吸がよくわかって、ますます立ちにくい。「待った」をくり返して、立ち合いまでに小一時間かかることも珍しくなかった。
頭を付け合った状態は、仕切りを重ねるごとにジリジリ前に寄ってしまったことから生じたもので、やはりこれでは立てなかった(少なくとも立ちにくかった)から、仕切りが長引かないための措置だったようだ(この時点で制限時間を超過する「制限時間後の待った」が想定されていたかどうかはわからないが)。
新田氏は、仕切り線が設けられた目的を「両力士の間に空間を設けることによって「声をかけ、応じて立つ」のではなく「タイミングを図って同時に立つ」方向へ力士を誘導し、駆け引きの余地を減殺することが意図されたのではないか」としているが、この池田氏の一文を読むと、そうではなく、仕切り時間制限時間の制定と密接に関わるものだったようだ(新田氏も「推測にとどまる」と断っている)。
池田政雄氏の書き残していることは、同氏が実際に仕切り線のない時代の相撲を見たことがある人だけに説得力がある(もちろん、1915年生まれの池田氏は当時少年だったから、後になって聞いた話も含まれてはいるだろうが)。
新田氏は、読売『大相撲』誌上(どの号だったかは覚えていないが)で「双葉山の『後の先』の立ち合いは、仕切り線の間隔があってこそ可能」と発言していたと記憶しているが、以上のことを踏まえれば、仕切り線の有無は関係ないと思う。
なお新田一郎氏が、相撲の技法は近代になって(特に仕切り線以後)大きく変わったと見ている一方、同じくアマチュア相撲に携わってきた桑森真介氏は、1900(明治33)年に撮影された最古の相撲映像から「現在の相撲と何ら変わらない技を駆使していた」「現在の相撲の技は・・・明治時代にはほぼ完成していたのであろう」と見ている(桑森真介『世界初の相撲の技術の教科書』6ページ/ベースボール・マガジン社)。