千代の富士 幻の全勝優勝

今年納めの九州場所は、照ノ富士が圧倒的な強さを見せての六度目の優勝で幕を閉じた。それも初の全勝で、今後に向けての更なるステップになりそうだ。

NHKテレビより

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ところで初の全勝といえば、千代の富士の場合は1983年春場所のことで八回目の優勝の時だった。

だが、その一年前の1982年春場所、千代の富士は十三勝二敗で四回目の優勝を果たしているが、この場所を私は「千代の富士、幻の全勝場所」と呼んでいる。

千代の富士 全勝を狙う

その春場所、解説者の玉の海神風両氏とも、千代の富士を優勝候補筆頭に挙げていた。

前年、関脇から大関、横綱へと一気に駆け上がったのは「勢い」に乗ったという印象もあったが、新横綱での休場明けの翌場所、苦しかった九州を「涙の優勝」で乗り切り、年が明けてからはハッキリと地力がついてきたことを感じさせていた。前の初場所こそ九州の休場から復調した北の湖との楽日相星決戦で敗れ、優勝は逃したが、場所前から相変わらず好調が伝えられていた。

快調に初日から十二連勝。相撲ぶりも全く危なげない。

日目 朝汐を上手投げで降す (相撲協会機関誌『相撲』1982年春場所総決算号「春場所熱戦グラフ」より)

特に十二日目は、北の湖、若乃花の二横綱に勝っている好調出羽の花を右四つから、相手が力を出そうとする瞬間を狙って吊り上げ土俵外に運ぶ、強さとうまさの合わさった相撲。

前出『相撲』「春場所熱戦グラフ」より

自身「力士生活の中で最高に体が動く。ここだと思ったら一気に出ていけるんだ」というほどの充実ぶり。周囲からは「全勝」の期待がかかった。

千代の富士自身は「簡単じゃないよ」「とても無理かも」と口では言っていたが「内心は『やってやる!』の気持ちだった。今まで三度の優勝があるが全勝優勝は一度もない。ここはチャンスだけに、本当にやりたかった」と場所後の優勝手記で語っている(『相撲』誌1982年春場所総決算号52ページ)。追う北の湖は二敗で二差をつけている。若乃花はこの日敗れて三敗に後退。

優勝は決まったようなもの、あとの焦点は全勝するかどうか――と誰もが思っていた。

思わぬ落とし穴~若乃花・隆の里戦

十三日目、若乃花との横綱同士の対戦。立ち合いから終始千代の富士が攻め続けたが、不十分の左四つがっぷりから強引な上手投げを打つと、若乃花は下手投げからすくい投げを打ち返し、両者の体は、ほぼ同時に土俵際で倒れた。

前出『相撲』「春場所熱戦グラフ」より

軍配は若乃花に上がり、物言いはつかず。支度部屋に引き上げてきた千代の富士は「もう一丁(取り直しのこと)なかったのかなあ、あれは」と、腑に落ちない様子だったという。

この日、打ち出し後すぐに『相撲』編集部に疑問を伝える電話が殺到したという。編集部に電話がかかるくらいだから協会やNHKにも、相当な数の電話がかかったことだろう。今で言う「炎上」だが、ネットもSNSもない時代には、電話か投書による抗議だった。

確かに上の写真を見ると、千代の富士の左足はまだ土俵内で辛うじて粘っているのに対し、若乃花の両足は完全に宙に飛んでいて、肘がほぼつきかかっている。

前出『相撲』179ページ写真

すぐ上は別の角度からの写真。これを見ると一層、若乃花(右)が不利に見える。『相撲』誌の「春場所総観戦記」には「ともに、ゆっくりと落ちたが、千代の富士が一瞬早く落ちた」とあるが(179ページ)これは苦しい。どう見ても若乃花の方が早い。この点、協会機関紙ではない『大相撲』誌(読売新聞社)には「物言いがつくべき」との指摘が載っていた。

だが、もっと問題なのは翌日、十四日目の相撲だった。相手は大の苦手、千代の富士の「天敵」とまで言われた大関(当時)隆の里。だが、この日は千代の富士が右四つ両廻しを引き、隆の里には上手を許さない有利な体勢になった。ただ両廻しとも深い位置だったので、長引いては不利と思ったか、千代の富士は右から強引な外掛け。隆の里はこらえつつ、かけられた足を跳ね上げながら、捨て身の上手投げ。両者が土俵の外に倒れたが――

DVD「横綱千代の富士 前人未到一〇四五勝の記録」(NHKエンタープライズ)より画面を撮影

写真でわかる通り、隆の里(手前)が先に手をついている。当時小学生だった私はテレビでこの相撲を見ながら「千代の富士勝った!」と思った。ところが実況アナウンサーは「隆の里の勝ち!」と叫んだ。

普通、微妙な相撲の時、アナウンサーは「〇〇山の勝ち」とは言わず「軍配〇〇山!」と言う。ところが、この日は迷いなく「隆の里の勝ち」と言ったのだから、隆の里の体が先に落ちるのを見た私はわけが分からない。そのあとも特に物言いについてのコメントもなし。「何か、見間違いだったのだろうか」とも思った(『大相撲』誌にも「自分が千代の富士ひいきの余り、目が変になったのだろうかと思った」という投書が載っていた)。

だが翌日の新聞には、東側からの写真だったが、はっきり隆の里の手がついている写真が載っている。しかも「〇隆の里 上手投げ 千代の富士●」とあるのだから、狐につままれた心境だった。

これは、もちろん千代の富士の「体がなかった」(当時は「体が飛ぶ」という言い方はあまりしなかったように記憶している)という判断で、隆の里の手は「かばい手」ということだったのだろう。

しかし、後で知ったことだが、ラジオで解説をしていた神風正一氏は「隆の里の手が早く、審判は動かないが物言いがつくべきだ」と言っていたらしい。これも読売『大相撲』誌「春場所熱戦グラフ」には、隆の里の手がついている写真に「千代の富士に分?」という見出しをつけて「少なくとも物言いがつくべき一番だった」と指摘していた。

前出『相撲』「春場所熱戦グラフ」写真より/隆の里が手をつく一瞬前の写真を載せるところが機関誌ゆえの「大人の事情」か?

私を含めたファンが理解に苦しんだものを、当の千代の富士が納得するはずもない。ちょうど審判長席には、審判部副部長(当時)でもある師匠・九重が座っていたのだが「同体だと思って、うちの師匠の顔を見たら下を向いていたので、こりゃダメだと思った」(前出『相撲』56ページ)と支度部屋で力なく語った。

師・十二代九重(元横綱北の富士/現・相撲解説者)前出『相撲』巻頭グラビアより

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◎詫びる北の富士

九重の方はというと「物言いをつけようと思ったが、師匠という立場を考えて躊躇してしまった」と悔やんでいた。

全勝を目指していたのに二敗。しかも二日続けての「疑惑の判定」。この日、北の湖も若乃花に敗れ三敗になったが、それでも一差。しかも若乃花と隆の里も三敗。千秋楽の相手は北の湖だったが、この相撲に負け、若乃花と隆の里が勝てば、4人による優勝決定戦になってしまう。「勝利の女神に見放されたも同然」と、半ばヤケだった(読売『大相撲』の手記による)。

物言いをつけなかったことに責任を感じた九重は、宿舎に帰って千代の富士に謝ったという。師に頭を下げられた千代の富士は「あんな(はっきり勝ちにならない)相撲を取ったのが悪いんです」と気持ちを切り替えた。千代の富士はこうなると強い。千秋楽、先に相撲を取った若乃花、隆の里は敗退して、またも北の湖との一騎打ち。千代の富士は、立ち合いすぐに上手を取り頭をつけると、終始攻めて北の湖を圧倒し、向正面で寄り切った。

前出『相撲』巻頭グラビアより

真っ向から北の湖を寄り切ったところに、千代の富士の進境が見て取れた。

大相撲 昭和の名力士 六(千代の富士・初代貴ノ花)

ウルフファンの私としては「終わり良ければ」で喜んだのも確かだが、あの二番の相撲の判定奈何では初の全勝だったのに・・・との思いも拭えない。「幻の全勝」と呼ぶ所以である。

ウルフの強み

『相撲』1982年夏場所総決算号の「しつぎおうとう」という、池田雅雄氏が読者の質問に回答するページに「十三日目の若乃花戦、十四日目の隆の里戦、ぼくは両方とも千代の富士が勝ちと思います。おじさんはどう思いますか」という9歳の子どもの質問が載った。これに対する池田氏の答え。

千代の富士自身は、「相撲に勝って勝負に負けた」と言っていました。この自信が千秋楽に北の湖を倒して優勝したものと思います。ふつうの力士ですと、微妙な勝負に物言いがつかないとガックリしてファイトがなくなりますが、千代の富士は、どんなに不利な裁定があっても、自分の判断で闘志を失わずに、千秋楽に勝ったのは立派です。この二番の相撲に物言いがつかなかったのはおかしいというのが、多くの相撲ファンの意見でした。勝ち負けはともかく、ファンの納得する裁定を期待します。(193ページ)

池田さん、かなり苦しい回答、というより、まあ「答えになってない」のだが、クサったり引きずったりしないで、さっぱりと開き直ることができるのが千代の富士の強みであることは確かだった。

優勝パレード(前出『相撲』巻頭グラビアより)

冒頭で言ったように、千代の富士が「本当の」初の全勝を成し遂げるのは、ちょうど一年後の1983年春場所のことになる。

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