どうも話が千代の富士時代に偏りがちですが・・・少しは今の相撲界のことも書かなきゃとは思っているのですが、相撲を一番胸踊らせて見ていた少年の頃に、どうしても戻ってしまうんですよね。もう、あの頃ほどワクワクしながら相撲を見るなんてことは今後もないんじゃないか、そんな気もしています。
前に、千代の富士新横綱場所のことを記事にしましたが ↓
話を千代の富士休場のままにしておくのも何なので、今回はいわば続編。1981年九州の話題です。
思えば四十年前。
当時から見た四十年前といえば戦前・戦中の双葉山時代。今のファンにとって、千代の富士や北の湖の話というのは、僕らがあの頃、双葉山の話を聞いていたようなものなんだなあ、今や千代の富士も伝説の存在なんだろうか――と思うと何とも感慨深いものです。
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「千代の富士はテングになった」
1981年名古屋場所後、横綱に昇進した千代の富士は、場所後の夏巡業の稽古で左足首を負傷した。
親方衆からは「昇進後の多忙な中で疲れもあったのが一因だろう」と同情する声もあった一方、
「横綱昇進で有頂天のあまり、心にすきがあったのだ」というような厳しい声も聞かれた。
仙台巡業でのケガについて、出羽海巡業部長は「気のゆるみ」を指摘する。
けい古で負けるとテレ笑いをしたり、胸を出す大きな相撲をとったり、いままでの千代の富士にはなかった面が見られた、それが不幸なケガに結びついたのだ、という。
横綱や大関に昇進した力士によくあることだが、つい胸を出して相撲をとりたがる。
オレは横綱なんだ、大関なんだ、という気分が知らず知らずのうちにそういう相撲をとらせるものらしい。千代の富士もその例にもれなかったのだろう。
・・・・・・・
私はかねがね思うのだが「地位は人を作りもするし、人をダメにもする」「地位はうれしいものだが、またこれほどこわいものはない」
まず、自分の相撲を忘れるな、と言いたい。
この一年、千代の富士の成長、躍進は実にめざましかった。
だがその裏に、輪島、三重ノ海、貴ノ花、増位山と、四人の横綱、大関が相次いでやめて行ったことも忘れてはなるまい。もう一つ、横綱若乃花の極度の不振、休場もあった。
だから千代の富士が楽に出世できたんだ、というつもりは毛頭ない。しかし、客観的にみれば、千代の富士の快進撃を容易なものにしたことも否定できない事実である。ここを謙虚に考える必要があろう。
北出清五郎『はなしのふれ太鼓』廣済堂 235ページより
力士に温かいエッセイを書く北出清五郎氏だが、珍しく厳しい文調になっている。
文中に出てくる出羽海巡業部長(元佐田の山)は「千代の富士は横綱になってテングになった」とも言ったそうだ。
もしかすると、ここで言われていることの他にも、よほど周囲の眉をひそめさせるような振舞いがあったのだろうか。
テングになったのも無理もないかも知れない。一年前までは平凡な幕内力士に過ぎなかったのだ。
急激な状況の変化(自分の力で勝ち取ったものではあったが)に心がついて行っていなかったことは十分に考えられる。
すぐ東京の部屋に戻って、治療に専念すれば良かったのだが、このあと巡業は郷里・北海道福島町行きが控えていたので、ズルズルと参加を続けてしまう。
故郷に錦を飾るはずが、相撲は取れる状態ではなく、土俵入りだけを披露。
福島町の人たちも、かえって不安になったという。
結果、新横綱の場所で怪我を悪化させ、途中休場という結果になったのは冒頭に掲げた記事のとおり。
「軽量でもあるし、やっぱり短命横綱になるんだろうか」
そんな見方もされた。
次の九州場所も休場の噂もあったが、出場に踏み切る。
上の記事に書いたように、前場所は都合のいいことばかり考えていた私も、今度は厳しい状況であることを認めざるを得なかった。
不安を抱えての九州場所
初日の相手は鷲羽山。変化技によくついて行き、難なく押し出した。
千代の富士よりも軽量で、これまでの対戦でも合い口のいい相手だったことが、初日としてはラッキーだった。
序盤はもたつく相撲もあり、四日目には大錦に一気に寄り切られるなど、やはり本調子ではないことを感じさせた。
だが、白星が最高の良薬と言われる通り、とにかくも勝っていくと徐々に調子を上げていき、中盤以降は本来の速攻や力強い投げも見られるようになる。
十二日目を終わり、気が付けば一人だけ1敗の単独トップ。
追う琴風、隆の里、朝汐に2差をつけていた。
ここまで来れば、一場所遅れながら横綱昇進を飾る優勝は目前と思われた。
試練の終盤
だが苦しいのはここからだった。
十三日目、3敗で追う朝汐に一方的に押し出される。
さらに翌十四日目の相手は隆の里。この時点では優勝争いから脱落していたものの、先場所、休場に追い込まれた因縁の相手で、そのことが頭をよぎったわけでもないだろうが、いいところなく力負け。
3敗で追っていた琴風、朝汐と並び、せっかくの2差の貯金を使い果たした形となった。
千代の富士の相撲に ‘悲壮感’ が感じられてきたと言う人もいた(初代貴ノ花のような)。
千秋楽の死闘
千秋楽の相手は、同じ三敗の大関琴風。
九日目から横綱北の湖が初めての休場、若乃花も全休したため、横綱-大関戦が千秋楽結びの一番となった。
もう一人の三敗の小結朝汐は、すでに勝って12勝を上げ、優勝決定戦進出を決めていた。
結び前には巨砲と隆の里が大相撲を取り、館内は最高に盛り上がっていた。
勝った方が朝汐との決定戦進出という一番。
琴風は先手を取り双差し、得意のがぶり寄りで攻め立てる。回り込みながら防戦一方の千代の富士。
向正面土俵から白房下に追い込まれたところで一か八か、捨て身の首投げ。
投げそのものは決まらなかったが、これで大きく足が流れた琴風は、そのまま尻餅をつく形で倒れた。
決まり手は浴びせ倒し。間一髪の勝利。
そして、本割で敗れている朝汐との決定戦。
得意の前みつを取ったものの、朝汐の圧力で簡単に切られ、一気に土俵際まで追い詰められる。
俵に足がかかったところで辛うじて前みつに手がかかると、そこで息を吹き返し、取った前みつを引き付けて反対側の土俵まで速攻で寄り返し、赤房下に寄り倒した。
ウルフが泣いた
テレビでは支度部屋でのインタビューが流された(当時は今のように表彰式中の土俵下でのインタビューはなく、表彰式前の支度部屋での共同インタビューの様子が映されていた)。
「おめでとうございます」との声掛けに「どうも・・・」といっただけで、言葉にならない。
「怪我で休場した、そのあとの優勝だけに実感が違うと思いますが」
いつもなら、ユーモアを交えて応答する千代の富士が「うれしいです」と答えるのがやっと。
「決定戦、すばらしい相撲でしたね」
「・・・・・・」
眼を赤くし、涙で声を詰まらせていた。
雑誌『大相撲』に寄せた優勝手記には、
「今場所ほど苦しく、一番たりとも気の抜けない場所はなかった」
「支度部屋に引き上げ、報道陣に取り囲まれた。緊張していないようでも、やはり気持ちは張り詰めていたのだろう。とたんに涙がこみ上げそうになった。つとめて平静をよそおうようにした。だが、抑えても抑えても、こみ上げてくるものを禁じえなかった」
「忘れられない場所になるだろう」
との心境が綴られている。
「人間千代の富士の勝利」
話は少しさかのぼって、上記の厳しい文章を書いた北出清五郎氏が、休場中の千代の富士を見舞ったときの様子を述懐して次のように記している。
彼は実に淡々として「けがをしたのは自分の心にゆるみがあったからです。自分の油断です」とはっきりいいました。
「今まで、ねんざくらい、なんてことはないと思っていた。だから部屋の若い力士がねんざで休むときは、よく叱りとばしていたものです。『なんだ、ねんざくらいで休むなんて、しっかりしろ!』と。ところが自分がねんざをしてはじめて、ねんざというものは厄介なものだということがわかりました」
・・・・・・・
私はそのとき、この経験で千代の富士はまた一つ人間的に成長するのではないかと、ひそかに思ったのです。
それから千代の富士は九州場所では一人横綱という重責を克服して、みごとに優勝しました。私は ‘人間千代の富士の勝利’ と呼びたいと思います。
『ものしり雑学 大相撲』三笠書房 133-134ページ